昭和58年11月10日 月次祭



 お祀り中に神様にお伝えを頂けました事について、まぁお話を聞いて頂こうと思います。御祈念中に綺麗な大根を頂きました。それから真っ赤に熟れた小さい胡椒を一つ頂きました。次にはカタツムリを頂きました、デンデンムシですね、その事から私感じらせて頂きました事などを聞いて頂こうと思います。どんなに大きく綺麗な大根でも、中にすがほげておったらもう値打ちはない、胡椒がどんなに赤く熟れて辛そうにしておっても、実際もし辛くなかったら、もうこの胡椒は詰らんと言う事になります辛みが値打ち。
 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと仰せられます。宗教を頂きますと、教祖の神様はご一生を値打ちのある価値ある生き方をなさったお方と思います。その価値あるもの値打ちあるもの、それをご自分の御生活態度、自分が実験され実証してこられた事を御話に下さり、御教え下さっておるのが私は新教典だと思います。カタツムリの御知らせは。私しは。あれはまぁきちとしておりますけれども、角があります、あれは触覚だそうですね。
 進むでももうそれこそゆっくりゆっくり例えば歩きょっても、そこに危険なものがあったら、その触覚によってどう受け止める、そして方向を変えて行く。歩にはカタツムリのようでありましてもそのような、絶対間違いのない人間万物の霊長としての値打ちを、いよいよ霊長たらしめるための生き方を、いよいよ身に着けて行きながら、生涯を価値ある生涯で終わりたいと言う様な、私しは願いを持つことがお道の信者だと思います。お取次ぎを頂いておかげを頂くと言う事もさることながら。
 人間としてのいわゆる価値ある人間。値打ちのある人間。生涯を価値ある生涯にするための御教えが、そのまま教祖の神様がおほめにならられた歩かれた道であり、その道を様々な角度からお説きになっておられたり、御話下さってしておるのでございます。お道の信心の中心は何と言うても天地書附けだと。天地書附が信心の目当てなのです。そしてその目当てに向ってそれこそカタツムリの様な歩みであっても、一歩一歩それに近付いて行く精進こそが日々の中になされていかなければなりません。
 それも火の行水の行と言うのではなくて、家業の行を務め努め、まぁいうなら生神への道を精進させて頂くのでございます。ところが実際は、見事な大根、見かけはとても立派な大根ですけれども、中身はすがほげておる、お金もあり立派なお家に住んで、何一つ不自由な事はなかろうと思う様な生き方をしておる人達が、心の中には不安があり心配があり、いうなら我情我欲が心に渦巻いておる様な生き方からは、私は価値ある生涯とは言えないと思う。
 折角有り難いお道に御縁を頂いたのでございますから、そういうところに着眼した信心、はっきりと目当てを踏んまえての日々。3、4日前でした、あることを御願いさして貰いよりましたら、和賀心に付いていろいろとお諭を頂きました。合楽に願われておるあらゆる角度から、和賀心とは、またその和賀心を自分のものにしていく事のための、いうなら初歩のところから、一つひとつ自分のものにして行く手立てが、まぁいうならば縦横無尽に説かれてあります。
 ところが私しは、4,5日前に頂いた。あぁなるほどこういう在り方から、和賀心の精進をしていかなければならないなとおもったんですけれど。和賀心とは、良し悪しを神に任す心ぞと頂きました。神様に御願いはするけれども、心配で不安でだまらん、折角ここへ心配を持って来ておりながらまた、心配を持って帰ると言った様な事ではなくて、お取次ぎを頂いての事であるから、これから先はもうあなた任せ、もう神様の世界である、そういう心に安らぎが頂ける様な信心こそ和賀心である。
 きのう佐賀の支部長であります、空閑さん親子4人でお礼参拝してまいりました。一昨日はあちらの奥さんのお母さんの告別式でございました。お礼に出てまいりまして、本当に神乍なお国替えでございました。それでも流石にお遺骨になって帰った時には、大声をあげて泣いてしまいました。けれども泣きながら思う事です、ようもお道の信心に御縁を頂いておった、改式のおかげを頂いておった。
 私共がこの様にして日々お取次ぎのおかげを蒙って助かっております様に、魂もまたお取次ぎを頂いて、これからのいよいよ喜びの御霊、安心の御霊として、おかげをこうむる事であろうと思いましたら、ようもようも合楽に御縁を頂いておったことがいよいよ、有り難いものに感じましたというお礼でした。私しは和賀心の、和の心は今申します様に、良し悪しを神に任せた心。賀の心とは、こういう尊いお道に御縁を頂いておった、合楽で信心の稽古をさして頂いておった。
 と言う事の御縁をいよいよ有り難いものとして気付かして頂く心。いうならばそれを喜ばせて頂く心が賀の心。和賀心それはピンからキリまでありましょう。まぁ皆さんの場合はだと思います。お取次ぎを頂いたら、もう親先生任せとか、もう神様お任せとか。そして信心を頂いておる事の喜びを、まぁそれぞれに感じておられるでしょうけれども。この和の心を喜びの心を、いよいよ本当なものに、いよいよ深く広く限りなくこの和賀心を極めて行く。今月今日お縋りして行く事の喜びを、皆さんお持ちだと思います。
 それが本当なものに段々なって行く事が、和賀心がいよいよ本当なものになって行くと言う事になります。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心を、その様々な御教えの中から、それを実験して実証して、皆さんにお伝えをしておるのでございます。合楽の信心はね、だから間違いのないものはないと思う。私しが実験し実証のいうならば証しを、皆さんに見て貰いそれを聞いて頂くのですから、空論じゃない。教祖様はこう教えておられる事を、私自身が実験してそして教祖様は嘘は仰ってない。
 確かにこういうおかげが受けられると言う、おかげを皆さんに見て頂きながらの信心ですから、合楽ではやはり信心が本当にその気にならば誰でもが、生神への道をいよいよ進めて行くことが出来ると思うんです。いよいよ和賀心を目指してもろうて、人間としての値打ちをいよいよ値打たらしめて行く生き方。人間は万物の霊長と言うても中には、まぁ人間の格好面しとるだけで、中身は犬猫にも劣る様な人だと言う様なのがございます。あぁもあさましい、お道の信心は誰でもいう。
 まぁ仏教的な用語で申しますと、悪、欲、煩悩ともうしますかね、悪もあれば欲もある。それこそ教えをぎょうじさせて頂いておると、私の様な人間でもいつの間にか欲がなくなり、悪が段々無くなって、いままでこれは煩悩だと例えばそれを、罪、穢れの様に思うておったことの中にでも、神様のお恵みのものとして。だからこの、欲、悪、煩悩なんかと言う事は、お道の信心で言うと、成程我情我欲を離れて真の、大道を開いて我が身は神徳の中に生かされてあると言う様に。
 ところが一遍い我情我欲が取れるものではありませんけれども。それこそ教えに基いた生き方をさして頂いておりましたらいつの間にか我情我欲が離れて来る。それこそ我が身は神徳の中に生かされておる喜びを日々感じ、人間が人間らしゅう。まぁお道の信心で言う、だから煩悩と言う事葉は要らんと思うですね。ですから煩悩と思うておったことその中に、神様からのお恵みのものとして、合掌して受けて行く生き方、そういう生き方をいよいよ身に着けて、価値ある人生を送らせて頂きたい。
 いよいよ魂を清めて参りますことになりますから。我情も取れ我欲もとれる、日々我が身は神徳の中に生かされておる。有り難い。そういう有り難い和賀心の世界を、いよいよ私共が目当てとして、自分の血肉にして行き、自分の周辺にそうした幸せな人が、一人でも二人でも多く真の人間を目指しての、人間万物の霊長としての値打ちを、いよいよ発揮させて頂けれる。カタツムリですら前には危険なものがあるとか、困ったことがないなんてこと、自分の触覚でそれを感じ取ると言うではないですか。
 ましてや人間万物の霊長が、霊長としての値打ちを発揮すると言う事は、私共の生き方の中にそこに鋭い触覚が、段々確かのものになってまいります。はぁこれはいけない、是は駄目だとそれに感じたところ、新たに方向を変えて本当な方向へ向きを変えて行けれる様な所までは、お互い信心を進めて行きたいですね。教祖の神様が新教典にあります様に、様々な事柄の中に神様の伝えのまにまに人間として、最高のそれはもし信心のない人が見たら馬鹿のように見えるかも知れません。
 それこそしいとしてカタツムリの様な生き方に見えるかも知れません。けれども絶対間違いのない、いうならばおかげが必ず開けて参ります。物事時節に任せられる様な、ご自身のやはり生活体験から教えられた事だと思います。打ち向かうものには負けて時節に任せよと。如何にもその時にはこう負けた様にあったり、馬鹿にされた様にあっても、その間違いのない道をうまずたゆまず進めて行って貰います。私共もそこのところを神習わせて頂いて、一遍に濡手で粟の掴み取りと言った様な心持になるな。
 仰せられます様にもうそれこそ一文二文でも、それを大切にして行くうちに、いつの間にか塵も積もれば山となるおかげにも、財宝にもなって来るのであります。確かな確かなおかげの道。確かに生神への道一歩一歩近づいて行けれる道。その生き方を教祖の神様御自身が身を持って体験なされ、前人未踏と思われる生神への道をはっきりお示し下さったのでございますから。金光大神の御教えに浴する者に合せて頂いておる者は、そこの私しは在り方を自分の在り方の上に頂きながら生きるこそ真の生き方であり。
 人間万物の霊長としての値打ちを頂そして発揮して行けれるお道。それにはお互いが天地書附を眼目として、胡椒は胡椒なりに胡椒の値打ちを、大根も見かけだけではない芯も値打ちある物にして行きながらのおかげ。いよいよ和賀心合楽の信心を一口の表現するとどう言う風においたらいいでしょうかね、と若先生が申します。日参教聴、信行、心行、家業の行、あれは高覧の教えかなんかテレビで見ておった。若先生がいってました。一日に5回の御祈念をするそうですね。
 たいしたもんだ、それがもう身に着いておる。合楽の場合は日参教聴、信行、心行、家業の行、それが身に着くと言う事は、家業の中に信心があるのではなくて、そうした身に着いた信心の中に、それぞれの家業があるということになります。合楽で言われる日参教聴、信行、心行、家業の行、これが合楽の信心はと問われたら、そう言う風に答えられる様にならんね、というて親子で話した事でございます。確かにそうです。はぁ私達ちゃなかなか日参は出来ない。
 出来ないだけですましちゃならん、出来るように信心が芯になるとだんだん出来て来るようになる。家業がしんであると、はぁ今日は忙しかけんと言うてもう信心が疎かになる。その辺のいわゆる頂き方が身に着いてまいりますてこそ合楽いよいよ御信心を語り、御信心を身に着けていくと言う事になると思います。こりゃもう信心信心ばっかり言いよったら、生活の方はどうなると、そこに言うならば神様のただ不思議と言うならばおれない、それこそ神の用を足せば氏子の用は神が足してやると仰せられる。
 お加賀の世界にも住むことが出来ます。お取次ぎをしてお願いをしておかげを頂いたというに留まらず。そうした信心をいよいよ芯にしての家業であり、生き方を身に着けていく、そこからおのずとあの生き甲斐を感じる。甲斐ある命としていく事が出来る。いよいよ和賀心。お取次ぎを頂いたら、それこそ良し悪しを神様にお任せ出来る心を養うて行きたい。本当に神様を信じてお任せ出来れる神様を頂いておると言う事が有り難い。
 と気づかして頂いて、その喜びこそが、賀の心和らぎ喜ぶ心、それがいよいよ限りなく、これで良いと言う事ではない、限りなく進められていくおかげを頂いたいものだと思います。今日大根のお知らせ、胡椒のお知らせカタツムリのお知らせを頂いて、只今聞いた頂いた様なその内容を聞いて頂いた積りでございます。皆さんももう一辺大根とは胡椒とはカタツムリとは、神様が願い求めておられる御信心だと思うて、もう一遍銘々のところで練り直してみられるといいですね。
   おかげを頂いて有難う御座いました。